セクハラについて
私がなんであの人に会いたくないって、セクハラ被害を受けたことを無かったことにされるのが嫌だからです。
「女が安く買える温泉に行きたい」「女の子はヤリマンになるために生まれてきた」「東南アジアに行って未成年の女を買う」、これは、昨年、一昨年あの場所で聞いた言葉です。
私が20代だった頃は「自分とセックスすると表現が良くなる」「あいつはセックスしないからダメ」という事を冗談まじりに繰り返し言われました。
(あれは冗談なんだ)と思おうとしても、多少影響は受けてしまっていました。「女は○○」といわれるのは、無理やり、着たくない服を着せられようなものです。余計なことでたくさん思い悩んだなぁと振り返ります。その労力を違う方に向けていたら、、、とも思っています。言われると、すごく困って、否定するのにとても疲れます。
その都度、言い返せるときは言い返しましたが、あの場所では「セクハラ(笑)」って認識しかないのでしょうね。
きっと今も「セクハラ(笑)」という雰囲気なんだと思いますし、私も面倒なことは避けたかったので適当な理由をつけて出るのをやめました。出続けることはあれらの発言を容認することになる、と何年も悩んでいました。もっとはやくやめれば良かったと悔やんでます。
こないだは音楽ユニットをやるといって「女の子2人募集」していましたね。あそこは表現をやる場所を標榜しながら、何を望んでいるのでしょうか。
今さら言うなと、文句つけて口を塞ぎに来る人もいるかもしれませんが、こういうことを面白半分で続けることは、人の力を削ぐことです。軽視しないでほしいです。
議論のテーブルに乗る気もありません。
私がセクハラで傷ついてきたのは事実です。これについてどこかで伝えるのも私の自由です。
私は、セクハラを受けて傷つき、力が削がれることが無くなってほしいからこれを書いてます。セクハラを「やめろ」と言う人、言わなくても、セクハラを軽視しない人、許さない人が増えてほしいと思って書いています。
セクハラしても「減るもんじゃない」というような事をいう人がいますが、セクハラによってその人の力や時間は確実に減ります。
私は自分の音楽をやりたい、人を楽しませたい、驚かせたい、と思っているのに、主体的人格ではなく、勝手に「性的利益の入れ物」にされ、批評されるのは不本意過ぎるし、余計な労力を割くことでしかありません。セクハラやめろ!!
あの時言い返せなくて、うまく言葉に出来ず苦しかった私のため、言い返したのにまともに受け取ってもらえなかった私のために書きました。
そして、セクハラを軽視しない人、すべての人を主体的人格と考える人が増えることを願って書きました。
届く人に届きますように。
7月7日 七夕
ババカヲルコ